総論2


大学紛争と学友会の分裂

 1968年1月に東大紛争が始まる。その1年後の1969年1月9日には、広島大学学園問題全学共闘会議(広大全共闘)が結成され、広島大学における大学紛争がはじまる。紛争によって、最終的には学友会文化部が解体し、現在の5者会議体制へと向かっていく。
教養部学友会文化部は1969年4月15日、19時過ぎから24時過ぎまで、数時間にわたって大学会館3階にて文化部会を開き、サークル活動の在り方をめぐって討論が行われた。この日の文化部会の終了後、集団暴行事件があったという記録もある。
 また、4月18日にも文化部会が開かれ、「芸術集団闘争委員会結成準備会」から文化部解体宣言が提出された。審議の結果、一度目は過半数に達しなかった(賛成10、反対9、保留3)が、再度審議した結果、賛成14、反対3、保留5にて可決された。
可決の翌日には、「広島大学文化部」名で「封鎖命令」などが各サークルに配布された。このとき設立された芸術集団闘争委員会(芸闘委)では、美術集団や演劇集団など、芸闘委の下で活動する9つあまりの再編成された文化サークルの存在のみがみとめられた。これは、学園闘争に積極的でないサークルを締め出そうということであった。その後、多くの文化系サークルでは内部で様々な議論が巻き起こり、闘争へ積極的にかかわろうとした団体、学外へ活動の場を求めたもの、分裂したもの、活動を停止したものなど、さまざまだった。
 解体に反対するいくつかのサークルは、1969年4月22日、文化サークル連絡協議会準備会を設立した。これには、部落研、中国研、茶道部、室内合奏団、YMCA、うたう仲間、学生奉仕団、広大障害者問題研などが参加した。同年6月14、15日に文連協準備会が主催した新入生歓迎集会には、十数のサークルが参加した。


 なお、このころの状況については資料が少ないため、いくらか誤りがあるかもしれない。上記の文章と矛盾する記録や、事実確認をとれなかった記述について、参考のため以下に列挙する。
○当時「文化サークル連盟」という組織があり、それが解体して一つの芸術集団となった、(合唱団の25年記念誌)といった記述があるが、詳細不明。芸闘委との関係も不明。
○芸闘委に締め出され、学内での活動ができなくなったことに危機感をおぼえたサークルが「文サ」「文団」「音協」を結成した(音協の歴史)という記述がある。「文団」については誤りだと思うが、紛争中すでに文サや音協が存在していたのかもしれない。
○『現在の音協が設立されてはや2年あまり』『音楽サークルが文化部に属していた時から、音楽関係だけで団体を組織しようという気運があり、文化部解体を契機に、音楽を共通な要因とした組織を作り、それによってあの混乱期を乗り越えようとしたのであった。』(学内通信 No43(1971年2月6日))という記述がある。「2年あまり」という記述と文化部解体を契機に」という記述がやや矛盾するが、文化部解体以降、紛争解決前に音協は誕生したと考えるのがベターか?


火炎瓶により炎上する学生集会所


占拠した本部屋上で革命歌をうたう学生

紛争の終了、文化系連合の結成

 1969年8月に、バリケード封鎖が解除されると、サークル活動も学外から学内へもどってくる。このころ、芸闘委から「文化サークル連合」(同年10月結成)や、「音楽サークル協議会」などが独立して誕生した、とする資料もあるが、詳細は不明。
 同年12月17日には、学生集会所の配分決定が行われた。このときには既に「音楽サークル協議会」「文化サークル連絡協議会」「文化サークル連合」という3つの文化芸術系サークルの連合組織があった。なお、このころの学生集会所(いわゆるサークル棟)には、いずれの連合組織にも属さない「一般学生団体」も入居していた。
 また、1970年2月に学生集会所の割り当てが再度(?)行われるのに際し、いずれの連合組織にも属さないサークルが連合を作る必要が生じた。これが、「文化サークル団体連合」前身組織結成の理由である。結成当時は、学生に権利を持たせようとしない大学側の体制を打ち破り(文団連資料による。)、BOXを確保するための利益団体であった(文団連サークル活動年鑑(1988年度版)による)。


1970年の文サ連入会案内 結成当時から全学会員制をとっていた

音楽サークル協議会の全学組織化

 1971年1月5日、音楽サークル協議会と学生部がリーダーズセミナーを共催する。ここでは、事業の拡大や予算についての話し合いがされ、全学的な会員制をとることが考えられたが、「まだ会員制については、時期が早いように思われる」(運営委員長)との結論に至った。
 最終的に、1973年2月に、音楽サークル協議会は「音楽協議会」と名を変え、全学的な組織となる。なお、音楽サークル協議会が音楽協議会となったのは1973年3月だという記述もあるが、これは、規約の施行が3月1日からだったことによる誤りだろう。(規約の施行をもって音楽協議会への移行、と考えてもよいかもしれないが、運営委員長のあいさつでは「2月の音楽協議会の結成を…」となっているため、2月とした。)

五者会議の変遷と役割

 1970年ごろに7つの団体が集まって文化サークル団体連合が結成されると、5つの連合組織(体育会、文サ連、文団連、文連協、音協)の間での連絡調整会議として、五者会議が開かれた。このころの文化系サークルの数は、全学団体として登録されているものが80、そうでないものを含めると約150に達していた。
 その後、1973年~1974年の間に文連協が解散し、一時期四者体制となる。なお、解散した文連協のサークルのうち、一部は文団連・文サ連に合流した。1977年5月には、8つの夜間サークルが集合し、Ⅱ部サークル連合(Ⅱサ連)が誕生する。こうして、再び五者体制となり、これが長期間続くことになる。
 当時の五者会議の大きな役割は、BOXの分配だろう。1971年ごろまでは、「200%方式」という方法によって、各サークル連合にBOXが分配されていた。これは、「各連合のサークル数」と「各連合の総員数」から分配する面積をきめるという方法だった。(100%+100%=200%)しかし、1972年にこの方式は見直されることになる。


森戸道路での「店出し」の様子



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