総論1


広島大学の設置から教養部学友会結成まで

 広島大学は、1949年5月31日に広島文理科大学などを包括し、設置された。広島文理科大学などの前身校におけるサークル活動としては、キリスト教青年団(文理科大学)や、写真部(1945年以前から存在)、演劇研究会(1947年創部?)などが記録として残っている。また、廣島高等學校の1927年度校友會誌には、体育系のクラブと並び「辯論部」「文藝部」の記載がある。これら前身学校の学生団体やサークルは、広島大学の設置後も活動を続け、さまざまな学生団体の結成に影響を与えたとされている。
 1949年10月26日には、広島高等学校を前身とする皆実分校(教養部)に「教養部学友会」が結成される。教養部学友会が結成されると、多くの団体はそこに所属した。

教養部学友会と体育会結成運動

 教養部学友会は、教養部生(1,2年生)を会員をとする一方で、教養部学友会に所属する体育系クラブの幹部は非教養部生(3,4年生)であった。こういった矛盾や、学友会の運動部関係予算への不満などから、1958年ごろより第1次体育会設立運動がおこった。当初は「運動部員のみを会員とする運動部の連合体」を目指すという意見が強かったが、予算・組織力の観点から「全学生・教職員を対象とする」体育会を目指すことになった。この運動は、当時の学生準則を超えた「全学部を包括する組織」を目指し、設立にかなり近いところまで進んだが、1959年3月21日の補導協議会で「継続審議」(事実上の打ち切り)が決定し、第1次体育会設立運動は終わることになる。こういった「体育会設立運動」は他の大学でも見られ、東大・京大・阪大・北大などの旧帝大では昭和20年代末までに、自治会から独立した「体育会」が設立されている。
 その後、1960年には8つの運動部が中心となり、文化系サークルも含めた全学的なサークルの集合体の設立を目指す「課外活動協議会設立準備会」が結成されたが、これについては大学・学友会ともに消極的・否定的な見解を示した。
 この状況を打開するため、1960年6月6日に「体育サークル連盟」が結成される。1961年には教養部が千田町に移転した。1962年の夏の主将会議を皮切りに、第2次体育会設立運動がはじまった。1963年9月27日には補導協議会にて、「体育会設立」を大学の最高決定機関である評議会にかけることが決まり、同年10月8日には評議会で体育会設立が承認された。そして同年11月2日、体育会発会式を迎えた。これをもって、体育会は教養部学友会から分離独立したことになる。
 体育会結成については、「体育会史」も参照されたい。

音楽サークル協議会の結成

 1963年11月2日の体育会発足・教養部からの独立は、文化系サークル、特に音楽系サークルに大きな衝撃を与えることになる。マンドリン同好会の部長と音楽研究会(DISC協会、後に室内合奏団が分離)の部長は、体育会独立に対抗するために音楽系サークルの連合を作ろうと活動を始め、1963年度中には「音楽サークル協議会」を結成する。初代委員長にはマンドリン同好会の部長が就任し、学友会からの独立運動を進めていくことになる。一方で、音楽研究会の部長は学友会執行委員に当選し、学友会対策を行っていった。形としては1963年度中には成立していた音楽サークル協議会だが、他の文化系サークルからの強い反発により、体育会のように新入生から直接集金を行うということはできなかった。

※学友会についての補足説明
当時、学友会は「教養部学友会」だけではなく、各学部にも設置され、その各学部の学友会に所属していたサークルもあった。たとえば、水畜産学部学友会には「囲碁部」「書道同好会」「自動車同好会」「ヨット部」「柔道部」が所属していたという記録がある。なお、教養部学友会には、新聞会、体育会(後に独立)、文化部があり、文化系サークルの多くは、この教養部学友会文化部に属していたことになる。



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