総論4


五者会議について

 1970年ごろ、当時存在した5つの連合組織(体育会、文サ連、文団連、文連協、音協)の間での連絡調整機関として起こる。代表は持ち回り制。1973~1974年ごろの文連協の解散により、一時期「四者会議」となるが、その後1977年5月のⅡサ連の結成により再び「五者会議」となる。また、大学の西条移転に伴い、Ⅱサ連が五者会議を離れ、代わりに大学祭実行委員会がオブザーバー参加し、現在の五者会議を形成している。
 五者会議と似たような組織として、「二者会議」(文サ連と文団連からなる)や、「三者会議」(文サ連、文団連、音協からなる)も存在していたことがある。
 最近の活動は、入学式オリエンテーションでのサークル紹介や、サークル案内冊子の配布など。

音楽協議会について

 体育会発足・教養部学友会からの独立に対抗するために、1963年度中に前身の「音楽サークル協議会」が設立される。体育会と同じように、全学会員制を目指すが、他の文化系サークルからの強い反発により断念。大学祭にて「MUSIC FESTIVAL」という演奏会を行う。
 1969年になり大学紛争がはじまり、学友会文化部が解体されたのを契機に、1969年5月(2月との説も)、新生「音楽サークル協議会」が設立される。この「音サ協」と、1963年度設立の「音サ協」とのつながり等は、資料が見つかっていないため今のところ確認できていない。
 1973年には、名称を「音楽協議会」と変え、全学組織に移行。1974年10月ごろから会員へのギターの貸出などを行っていたが、現在ではおこなっていない。「全学組織」というのも完全に形骸化しているといえる。
 主な活動として、年1回の合同演奏会「フェニックスコンサート」がある。これは「東広島市民のみなさんに音楽を通じて広島大学に親しんでいただこう」ということを目標に、1983年に第1回が開催された。1986年は、衆参同日選挙のため会場を押さえられず中止、1987年には第4回が開催された。(その後、年に2回開催する年などがあり、2010年には第31回を迎えた。)なお、昭和50年ごろには軽音楽系サークルの合同演奏会「PHONIX CONCERT」が開催されているが、おそらく繋がりはないだろう。また、音楽研究会のレコードコンサートも「フェニックスコンサート」と称していたが、こちらも繋がりはないだろう。
 機関紙として、「アンサンブル」「かでんつ」「音協だより」「音協かわら版」などがあったが、現在はいずれも発行されていない。
 1980年代をピークに、会員数は減少傾向を示していたが、新規加入サークルや軽音楽サークルの部員数の増加により、現在ではやや持ち直している。加盟サークルの総部員数は約800人、音協会員数は800~1200人程度と考えられる(2010年4月1日時点)。

≪現在の加盟サークル≫合唱団、パストラール、交響楽団、室内合奏団、吹奏楽団、ギタークラブ、マンドリンクラブ、邦楽部、ロック同好会、フォークソング部、ジャズ研究会、フェニックス放送、PDE
≪脱退サークル≫グリークラブ、吟道部、能楽研究会、ハワイアンズクラブ

文化サークル連合について

 1969年10月結成(1980年新歓パンフ)。大学紛争後、芸闘委で活動していたサークルが集合してできたとする資料もあるが、詳細不明。東千田時代には、文サ連として大学祭で企画などを行っていたが、最近は行われていない。
 「新入生歓迎パンフレット」によると、多くの学内問題にも取り組んでいる。(1989年「はり紙禁止措置撤回要求」や、1990年「スパイ事件に対する抗議」、1995年「学生生活に関する規定撤廃要求」など。特に「はり紙禁止措置撤回要求」では、1400名以上の署名を集めた。)
 1972年には、文化系連合組織の中で最も多い会員数だったが、加盟サークル数の減少などにより会員数は徐々に減少。現在の加盟サークルの総部員数は100~200人程度と推定される(2010年10月1日時点)。

文化サークル団体連合について

 大学紛争終了後の1970年2月に学生集会所の割り当てが行われるのに際し、いずれの連合組織にも属さないサークルが連合を作る必要が生じた。これがきっかけとしてできたのが、文化サークル団体連合の前身組織であると思われる。
 発足当時は単なる利益団体だったが、1972年ごろには運営委員会が開かれる。その後、リーダーズセミナーや新歓行事などを行うようになってくると、運営委員会だけでは対処できなくなってきたため、1974年から代表者会議が開かれることになる。また、1975年には運営委員会を事務局に改組する。かつては、機関紙「飛翔」を発行していたが、現在は発行されていない。
 1980年には、文団連の設置した立て看板に対し、体育会が「体育会批判だ」と反発する事件が起こる。立て看板の前で両者が激しい討論を行い、最終的に体育会が立て看板を撤去した。この立て看板の撤去に対し文団連は激しく反発し、体育会との質問状のやりとりが何回か行われた。
 最大時には約30サークル・公称総会員数1100人が加盟し、文化系サークル連合組織の中では最大の規模を誇った。しかし大学の西条移転などの影響で、加盟サークル数・総会員数は大幅に減少した。加盟サークルの総部員数は約400人と考えられる(2010年4月1日時点)。

Ⅱ部サークル連合(東千田サークル連絡会議)について

 1977年5月、8つの夜間サークルが集合し、できた組織。機関紙「星雲」の発行などを行う。東千田時代には五者会議のメンバーであったが、大学の西条移転に伴い、五者会議を離れる。1998~1999年ごろには「東千田サークル連絡会議」となるが、2002~2003年ごろに解散か。現在、東千田キャンパスにはサークルの連合組織は存在しない。
 文化・芸術系サークルだけでなく、体育会系のサークルも加盟していた。黎明期の所属サークルとしては、フォークソング、コンパ研究会、社会学史研究会、シネマハウスなど。

文化サークル連絡協議会について

 文化部解体に反対するサークルなどが集まって、1969年4月22日に「文化サークル連絡協議会準備会」を結成。同年6月14~15日には、準備会が主催する新入生歓迎会が行われ、十数のサークルが参加した。
 その後、紛争後には「文化サークル連絡協議会」の名前が見られる。1973~1974年ごろに解散?し、文団連や文サ連に合流したサークルもある。
 創設時から規模は小さく、加盟サークルは5つ程度、加盟サークルの総部員数も100人に満たなかった(1971年)。



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